当店の由来
国立国会図書館蔵
江戸通り沿い 大正5年ごろ 当店(右)
「鴨南ばん」の歩みは江戸時代文化年間(1810年頃)、日本橋馬喰町の鞍掛橋のたもとで始まります。
初代「笹屋治兵衛」は長崎の「南蛮煮」をもとに「鴨南ばん」を考案したところ、たちまち江戸中の評判となり「鴨南ばん」は店の愛称としても親しまれるようになりました。
しかし、治兵衛は後継者に恵まれず「伊勢屋藤七」を2代目として迎えます。山崎叡山が1885年(安政2年)正月80歳で著した「蕎麦道中記」隻六蕎麦案戯書で江戸の名店11選として多くの文献や番付表に紹介されています。藤七は鴨が渡って来ない夏の時期は穴子を使った料理なども出していました。
明治の中頃から藤七の子の「川辺藤吉」が店名を「元祖鴨南ばん」として3代目になりましたが、東京の大半を焼く関東大震災(大正12年)の大火事で店も消失してしまいます。
翌年、弟子の「杉山喜代太郎」が4代目となり当時働いていた職人を集め、区画整理のため店を少し浅草橋寄りに移して再興させました。その後、喜代太郎は震災で全焼した日本橋区の復興を目指して区議会議員になり、その活動が多忙になったため、両国長寿庵で修行をしていた「桑原光二」が5代目を引き継ぎました。この時に妻の「トイ」が「鴨せいろ」を考案し、各地に支店もできたため店名に本家をつけ、現在と同じ「元祖 鴨南ばん 本家」としました。光二の後は長男の「敏雄」が6代目となり歴史を伝えていましたが、街並みの変化により湘南台に本家を移転させ光二の三男の「芳晴」が7代目として引き継ぎました。
当店は8代目で200年あまりの伝統の味を守り続けております。
初代 治兵衛の鴨南ばん
初代 治兵衛の鴨南ばん
「治兵衛の鴨南ばん」は当店の初代「笹屋治兵衛」が出していた「鴨南ばん」を再現いたしました。
当時は真鴨肉三枚とたたき骨二本に短冊に切った長ねぎを入れ、「鴨」と書かれた漆塗りの蓋をしていました。
「治兵衛の鴨南ばん」では、合鴨ではなく青森県産の本鴨を使用しています。葱は江戸野菜である江戸千住葱を使用しており、その最盛期となる冬の時期には格別な一品となります。
現在「鴨南ばん」は全国の蕎麦屋の定番になりましたが、その起源となった味をお楽しみください。
元祖 鴨南ばん
元祖 鴨南ばん
昔は冬に渡ってくる真鴨を使用していたため、店名にもなっている看板商品の「鴨南ばん」は季節が外れると作ることができませんでした。
明治時代後半から合鴨産業が広がり、鴨肉が1年を通して流通し、合鴨肉に切り替えることで夏にも「鴨南ばん」を作れる様になりました。
当店の合鴨は宮城県産蔵王竹炭水鴨を使用しております。
現在では「治兵衛」の頃のようにたたき骨を入れてはいませんが、鴨を余すところなく、まるごと一羽使う製法は当時のまま引き継がれています。
元祖 鴨せいろ
元祖 鴨せいろ
昭和10年、桑原光二の妻・トイがお客様に「鴨南蛮は熱いから、夏には向かない」と言われたことがきっかけでした。 トイが最初に考えたのは、蕎麦と鴨南蛮に使う鴨汁を分けることでした。 いわゆる「かけそば」と同様に鴨南蛮の汁は別々にして食べるには薄く、この案は失敗に終わります。 それから試行錯誤を繰り返して「つけそば」用の鴨汁が完成、「鴨ぜいろ」と名付けました。
完成した「鴨ぜいろ」をそのお客様に召し上がっていただいたところ、大変満足してくださったそうです。 冷たい蕎麦と温かい鴨汁の相性は抜群で、鴨の風味を損なうことなく夏にも楽しんでいただけるものになりました。
※当時のお品書きは「鴨せいろ」ではなく、「鴨ぜいろ」となっていました。
また、昭和29年当時の東京都麺類協同組合の鈴木政一、伊原幸八が講師となって、各店人気のメニューを紹介する講習を各地で行いました。この時、鴨南ばんの人気メニューとして「鴨ぜいろ」も紹介されました。